- 仕事始めが予想よりも早めに片付いたので、時間調整がてら川崎駅前にある複合商業施設「ラ チッタデッラ(LA CITTADELLA)」を久々にぶらついてみたら、チッタグループ創業100年を記念した歴史ギャラリーがありました。
- 「チッタ ヒストリーギャラリー チッタDNA(CHITTA’ HISTORY GALLERY CITTA’ DNA)」という施設名でして、小振りでオシャレな空間でした。
- オープンは2022年11月23日だそうです。せっかくなので、見学してみました。
場所はここ。
JR川崎駅から徒歩4〜5分といったところにチッタデッラがありまして、チッタDNAはその地下1階です。(入口は、クラブチッタの向かい側にありました)
現地写真(チッタデッラに至るまでの歴史)。
チッタDNAの入口。赤が鮮やか。↓
「現在位置」のあたりに入口があります。↓
地下に続く階段では、チッタデッラへの歴史を伝える数々の写真がお出迎え。↓
「DNA」には、Dive、Next、Actionの意味も込められてたりします。↓
館内BGMは、Spotify上でプレイリスト化されてます。面白い試み。↓
ギャラリー内のほぼ全景。展示物の一部(フェデリコ・フェリーニさんの描いたポスターなど)は撮影NGなので、気をつけましょう。↓
ではいよいよ、撮ってきた関連写真とともにチッタデッラの歴史を見ていきましょう。
1922年(大正11年)、創業者の美須鑛(みす こう)さんが東京・日暮里駅前に映画館を開業。
1927年(昭和2年)、映画配給事業開始。映画館経営は町屋・王子・大塚などに拡大。
1937年(昭和12年)、川崎駅前の広大な土地(荒涼とした湿地帯だったそうです)を購入し、映画館・飲食店などオープン。3年後には東京・神奈川合わせて30館近い映画館を経営。
1945年(昭和20年)、東京大空襲・川崎大空襲でほとんどの映画館が焼失。しかし、同年11月にはバラック屋根の映画館を再開。
1949年(昭和24年)、川崎映画街は6館体制に。洋裁学校や結婚式場(ホテル)もオープン。で、京急川崎駅と映画街を結ぶ銀柳街が誕生。
1950年(昭和25年)、蒲田にも映画館3館オープン。
1953年(昭和28年)、テレビの製造販売会社を設立。(←スゲーな、しかし)
1957年(昭和32年)、川崎映画街拡充。1000席の大劇場や映画コンクールも。
1958年(昭和33年)、美須鑛の長女・美須君江さんが経営参加。
1961年(昭和36年)、川崎映画街にシアターキャバレー「グランドオスカー」オープン。(←300人のホステスが在籍していたそうです。スゴすぎ…)
1964年(昭和39年)、川崎映画街(美須映画街)にボウリング場オープン。翌年にはスケートリンク(夏はマンモスプール)もオープン。
1968年(昭和43年)、「美須映画街」は「ミスタウン」へ。
美須君江さんの娘で、イタリア人外交官の妻・孝子さんが経営参画し、1987年(昭和62年)、日本初の本格的シネコン「チネチッタ」が誕生。
1988年(昭和63年)、ライブホール「クラブチッタ」オープン。
2002年(平成14年)、当時のチネチッタやクラブチッタ含め全ての建物を取り壊し、新たなエンターテインメントシティ「ラ チッタデッラ」オープン。
2003〜2006年の4年連続で映画の動員数・興行収入ともに日本一に。
震災・パンデミックなどいくつもの困難を乗り越えて、チッタグループは2022年に創業100年を迎えました。めでたしめでたし。
現在の経営の舵取りは4代目の美須アレッサンドロ社長さんです。
ギャラリーの出口には、「チッタの未来はあなたと共に。」というメッセージが。いいですね。↓
所感。
庶民へ良質な娯楽を提供すべく、戦前から努力し続けた美須ファミリーの力によって、現在にいたる川崎駅前の発展の基礎が作られたことを、今回初めて知りました。
(なんせ、今や駅周辺にはチネチッタを含めてシネコンが3つもありますからね)
なぜ映画だったのか。なぜテレビを作ろうとしたのか。どうして銀柳街ができたのか。なぜイタリアの街を模した複合商業施設にしたのか。などなど、やはり歴史をさかのぼるといろんなことが見えてくるもんです。
さっと見るだけなら10分ぐらいでも大丈夫ですし、入場無料ですから、ライブや映画の前のちょっとした空き時間にぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょう。
まずはともあれ、美須ファミリーに感謝。(←市長か、自分?)
Link(関連サイト)
ラ チッタデッラさんの公式サイト。↓
チッタグループ創業100年の特設ページ。↓
(企業の歴史だけでなく、日本のエンタメ史の変遷も実感できます)
チッタグループ社長(美須アレッサンドロさん)のメッセージ。↓
(素顔が拝めます)
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